僕の顛末紀  著1995年(社会福祉協議会で受賞作品 当時、とある高校で発表した作品 時代の進化から養護表記を支援に変更)
 

 

僕は最初、普通高校に通っていました。普通高校に行っていた頃は、髪は「パツキン」、タバコは勿論、シンナーも吸う、運動会の日には水筒に酒を入れて持っていく・・・・という具合で、今では考えられないような生活をしていました。

当然、生活指導の先生からはしょっちゅう呼び出しがかかり、帰宅命令を受けていました。この頃、そんな生活が楽しかったというわけではありません。ただ単に、人生こんなものだと思っていました。というより、「この一日一日が楽しく過ごせればそれでいい」という刹那的な考えでいました。悩んでいるという感じはありませんでした。将来のことも真剣に考えていなかったからだと思います。

 親は当然心配していたと思いますが、当時の僕はとうていそこまで考えが及びませんでした。バイクを盗んで警察から窃盗容疑で家に呼び出しが来たことがありました。その時、母はとても怒って、そばにあったスリッパで僕のほっぺたに往復ビンタを食らわしました。僕はしかられて当然だと思っていたので、その時反抗もしませんでした。そして家庭内暴力に及ばないだけ、マシだと思っていました。

 母の悲しみを、思いやるゆとりはなかったのです。

 一九九四年、当時高校一年の僕にとって、さまざまな非行の中でも、とりわけバイクは、魅力的でした。友人五、六人連れ立ってよく汐見埠頭までバイクを走らせました。バイクのお金はバイトをして返す、という約束で、親に買ってもらいました。その約束は未だに果たされていないのですが・・・・・。

 一年間無免許で乗ったのですが、免許を取って五ヶ月後、交通事故を起こし意識不明の重体となりました。
ドクター曰く「99.9%意識回復の見込みがないが奇跡という可能性は残っている。しかし奇跡的に戻っても親の顔も分からない・動けないと残酷な現状が待っているでしょう」

 この頃の気持ちを後で思い返してみると、事故れば死ぬと頭では分かっていても恐怖感はありませんでした。死ぬなら死んでも良いと思っていました。

 そして事故の日普通高校生の僕は死にました。

 ドクター曰く99.9%脳死状態で駄目。
残される可能性は「奇跡」が起きるか起きないかですが私は奇跡を見た事がありません。と・・・・・
しかし二ヵ月半の昏睡状態の後、奇跡が起こりました。病院で意識が戻ったときの気分は「生まれたて」という感じだったと思います。過去というものが一切ないのです。今までの記憶がまったくないのです。親に話しかけられて少しづつ少づつ記憶の糸がつながっていきました。記憶が戻れば残酷な現状が待っていました。この頃僕は気管切開により呼吸を保っており、声は出ず、会話はもっぱら「文字板」を頼っていました。それを使って最初に訴えたのは「生き地獄や。何で意識を戻らすんや。何で死なせてくれへんかったんや、殺してくれたほうがよかった。」という言葉でした。親の反応は全く覚えていません。自分の事だけで精一杯でした。この思いは、口が利けるようになっても何らかの形でしばらくは僕の心に残っていました。

 心身の回復につれて、支援学校編入の話がありました。支援学校について、僕は何の知識もありませんでした。中学校には、支援学級がありましたが、そこは知的障害の人たちのためのもので、当時の僕には遠い存在でした。

ああいうところで自分が適応できるだろうか、われながら不安で頼りない気がしました。こうした気持ちのまま、入院先の病院からスクールバスを利用して支援学校へ通う身となりました。一年遅れの編入です。編入してみると、支援学校の友人たちは、想像していたよりずっとしっかりしていました。学力や体力の面だけからいえば、支援学校の人たちは、普通高校の人たちより劣っているかもしれません。でも、意識面というか精神的には、とてもしっかりしています。特にみんなの団結力には感心しました。普通高校にいた頃はリーダー格の人間が三人いて喧嘩になれば、グループはすぐ三つに分裂しました。ところが支援学校ではみんなが見事に一つになります。お互いにごく自然に助け合うのです。出来ないことが一杯あるけれど、足りないところをお互いに補い合うのです。

 支援学校に通い始めた最初の頃、歩くことも話すことも、自分の手で食べることも出来ない重度の障害を持った友人を見て「かわいそうだな。気の毒だな」と思っていた僕でしたが、一緒にいるとたとえ口は利けなくても何かしら気持ちが通い合うのです。みんな、一生懸命生きているのです。口で何も言わない分、そのひたむきさは僕の胸を打ちました。

 とはいえ、ぼくもすっかり悟りきっていたわけではありません。朝、目が覚める前、頭の中で「事故ったことはもしかしたら夢かもしれない。夢であってくれ。目を開けたらなーんだ夢だったのか。と笑える状態であってくれ」と思って、おそるおそる目を開けると、そこには当然ながら左半身不随の僕がいて、改めてがっくり・・・・ということが一度ならずありました。支援学校の学習内容にも不安がありました。中一レベルの内容だったり、スピードがとてもゆっくりだったり・・・・しましたから。そういう不満もあったのですが周りの優しさ穏やかさに僕の心はゆっくりと癒されていき、現実からは逃げないで現在の自分としっかり向き合う勇気を与えられました。 

 高校三年生の頃、移動能力の確保のためには、今の僕には車の運転免許が是非とも必要だと考えて運転免許を取りました。免許を取るのには健常者の二倍の時間が必要でした。でも絶対免許を取ってやるぞという気力で頑張りました。七月末より通い始め、九月末にははれて運転免許を手にすることが出来ました。教習所では車椅子に乗っていてもとても親切にして貰いました。健常者だった頃は決して素直には言えなかった「ありがとう」という言葉が自然に出てくる僕でした。

 障害をもつ身になって初めて見えてきたものがたくさんあります。偉そうなことをいう気持ちは全くありませんが、今の僕はどんな身体であろうとも「生きてて良かった」という気持ちで一杯です。

 命の大切さ尊さを実感しています。

今は(2008年)の現在は状況がガラッと変ってましてパソコンのスキル向上の為に幾つかの資格も取得(プロフィール参照)いたしました。

歩行も杖歩行と杖なし歩行を使い分けている現状です。

なんと言っても結婚暦が出来た事にも凄い驚きです(離婚してしまいましたがww)。

とにかく波乱万丈しかりなかなか歩めない人生を歩まさせてもらってます。