7 高野山阿弥陀来迎図再論

  

 私は裏書の信頼性に疑問をなげかけた宮島論文「6 来迎図裏書の信頼性について」の主張に対し


て否定的ですが、次のような検討に値する指摘も含まれていると思います。

 1 興山寺文書中の元禄8年(1695)の「江戸幕府奉行連署譲状」の中には十六羅漢像の名は


あっても聖衆来迎図の名はない。

 2 「紀伊続風土記」には「山越弥陀」と簡単に記されているだけで五大力像(「2 天台本覚思


想と来迎図」)のような伝来については一切ふれられていない。

 次ぎに「1 比叡山焼き討ちと来迎図来迎図」で私が述べた「僧侶」とは二箇所とも尊秀だと思っ


ています。「武勇逆徒」とは織田軍を指す言葉でしょう。しかし貴兄の指摘するような可能性もあり


得たと思います。

 次ぎに伊賀・伊勢の皇室とご縁の深い寺院(天台宗真盛派?)を一時的な避難場所としたという貴


兄の理解はその通りだと思います。ただこの時点で徳川氏がどの程度この問題に関与していたかは私


にもよくわかりません。さらに1587(天正15)年の本来迎図修復がどこで行われたかはこれも


はっきりとは断定できません。

 本図が書写山円教寺に移ったことが正しいとすれば、たしかに貴兄のいう通り本図に付き添ったと


思われる安楽院出身の僧侶の希望が尊重されたであろうと思われます。

 しかし私はただそれだけではなく、当時の政治情勢とのかかわりもあったと推定するのです。

 最近の学界においては、室町時代に最低となった天皇の権威は戦国時代から安土桃山時代にかけて


再び復活したという考え方が有力となってきました。

 たとえば、信長は正親町天皇と対立し同天皇の退位を要求したにもかかわらず結局失敗しました。


また秀吉は家康を武力で制圧することができず、結局家康を天皇を頂点とする官位体系に組み入れる


ことによって家康支配の形式をととのえたのです(今谷明「武家と天皇」岩波新書)。

 1584(天正12)年秀吉が比叡山の再興を許可したときも天皇への奏聞を経ていることが注目


されます。従って本図が正倉院御物なみの勅封の扱いを受けていたという既成事実を考えれば、これ


は安楽院の僧侶の希望だけではすまず、やはり皇室の意向を受けた秀吉政権のしかるべき人物が徳川


家と折衝せざるを得なかったと思われるのです。

 また信長が上杉謙信に贈ったとされる上杉本洛中洛外図のように、戦国大名のかけひきの道具とし


て絵画が使われた例もあります(黒田日出男「謎解き洛中洛外図」岩波新書)。

 姫路が秀吉政権の重要拠点ではないとの貴兄の指摘はもっともです。彼が大坂城に移って以後も弟


秀長はじめとする秀吉一族が姫路城主となっているので、重要拠点と私は考えたのです が、それは


さして重要なことではなかったかもしれません。

 本多広孝が伊賀・甲賀衆を通じて、本図に関する情報を早くから知っていたのではないかという貴


兄の推論は確かにその可能性は高いというべきでしょう。ただそこまで言及するには、もうすこし確


実な史料がほしいというのが私の本音です。

 なお宮島論文については貴兄も関心が深いように思いますので、その内容をやや詳しく紹介してみ


たいと思います。この論文はおそらく印刷の関係で字数制限があったらしく、従ってついでに言及し


たらしい本来迎図の流転の歴史についての叙述は舌足らずの文章になっていて、論旨不明確なところ


があります。従って私の紹介文は私の論旨補足の部分があることをあらかじめお断りしておきます。

 1 安楽院は元亀の焼き打ちに際して唯一焼失を免れた。

 2 本図は1584(天正12)年以後秀吉の再興許可により比叡山にもどった。

 3 この推定を裏付ける史料に聖衆来迎図の名が見出されないのは、この時期に本図がまだ高野山


に伝来していなかったことを示す。

 4 史料の山越弥陀についてその伝来に関する記述がないのは3の時点以後に本図が高野山に伝来


したと考えても矛盾しない。

 5 安楽騒動は宝暦八年(1758)と安永元年(1772)に起こっており、二度目の騒動に際


してこの霊宝が叡山を去ったとは考えられないだろうか。

 武家政権と天皇の権威の問題や勅封についての私の文章が抽象的で貴兄にはわかりにくかったであ


ろうことを反省しました。そこでをできるだけ史料に即して申し述べてみることにします。

 本来迎図裏書には「毎年7月15日に勅使が参降して勅封蔵を開封した」と述べられています。

 「実隆公記」(永正6{1509}年10月15日条)に「安楽谷本尊恵心僧都筆来迎阿弥陀廿五


菩薩像三幅自御所可拝見之由被仰下之」の記事があり、本来迎図は16世紀に入ってもなお皇室と深


いかかわりを持っていたことが知られます。そうすると本来迎図裏書の文章も誇張とは考えられず、


事実を語っていると思われます。

 従って比叡山の霊宝として皇室と深いかかわりを持つ本来迎図を一時避難場所から比叡山に戻さ


ず、他の寺院に移すとすれば、これは皇室の了解が必要であったろうというのが、私の考えです。

 次ぎに1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いの評価について述べます。

 この戦いで家康は秀吉に軍事的には勝利しましたが、戦後の政略に敗北したと言えるでしょう。

 例えば同年4月の長久手の戦いで家康は秀吉方の有力武将池田恒興・森長可を戦死させ勝利しまし


た。この敗北で秀吉はおそらく家康を武力で服従させることを断念したと思います。

 そこで秀吉はまず織田信雄と家康の連携を分断する作戦に出ます。これは同年11月信雄が家康に


何等相談もなく秀吉と和約したことで成功したといえるでしょう。

 次ぎは家康家臣団の分断による家康勢力の弱体化をはかります。これは1585(天正13)年1


1月、家康の重臣石川数正の出奔(「家忠日記」)となって実現します。この事件前後に徳川方の秀


吉に知られたくない情報はすべて秀吉に筒抜けになったと思われます。

 この事件を家康が予知していたかどうかよくわかりませんが、以後家康の行動を見ると、1586


(天正14)年5月秀吉の妹旭姫と結婚、10月秀吉の母大政所三河岡崎城に入る、同月家康大坂城


で秀吉と会見、というように急速に秀吉への融和と従属政策に転換していった様子がうかがわれま


す。

 本図の帰属をめぐる秀吉・家康双方の話し合いもこのような情勢の中でおこなわれたと考えられま


す。

 書写山円教寺は私の推論として例にあげただけで、本図のあたらしい帰属の候補の一つにすぎませ


ん。貴兄のいう通り本来迎図が伊賀・伊勢に留まった可能性もあると思います。ただ伊賀・甲賀衆と


は違った徳川方の判断により、本図の帰属をめぐる処理が徳川方の手から秀吉方の手に移ったことは


確かでしょう。

 そして小牧・長久手の戦後、家康の次男義伊(結城秀康)が秀吉の養子(実質人質)として大坂城


に赴いたのと同じように、本来迎図もまた家康が秀吉に臣従した証としての役割を担わされたのでは


なかろうか。

 そして1574(天正2)年織田信長が洛中洛外図を上杉謙信に贈ることによって、織田・上杉同


盟を強化し、武田勝頼に対抗しようとしたかけひきと本図の帰属をめぐる話し合いがよく似ていると


思うのです。

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