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7 高野山阿弥陀来迎図再論
私は裏書の信頼性に疑問をなげかけた宮島論文「6 来迎図裏書の信頼性について」の主張に対し て否定的ですが、次のような検討に値する指摘も含まれていると思います。 あっても聖衆来迎図の名はない。 想と来迎図」)のような伝来については一切ふれられていない。 ています。「武勇逆徒」とは織田軍を指す言葉でしょう。しかし貴兄の指摘するような可能性もあり 得たと思います。 兄の理解はその通りだと思います。ただこの時点で徳川氏がどの程度この問題に関与していたかは私 にもよくわかりません。さらに1587(天正15)年の本来迎図修復がどこで行われたかはこれも はっきりとは断定できません。 思われる安楽院出身の僧侶の希望が尊重されたであろうと思われます。 再び復活したという考え方が有力となってきました。 また秀吉は家康を武力で制圧することができず、結局家康を天皇を頂点とする官位体系に組み入れる ことによって家康支配の形式をととのえたのです(今谷明「武家と天皇」岩波新書)。 されます。従って本図が正倉院御物なみの勅封の扱いを受けていたという既成事実を考えれば、これ は安楽院の僧侶の希望だけではすまず、やはり皇室の意向を受けた秀吉政権のしかるべき人物が徳川 家と折衝せざるを得なかったと思われるのです。 て絵画が使われた例もあります(黒田日出男「謎解き洛中洛外図」岩波新書)。 秀長はじめとする秀吉一族が姫路城主となっているので、重要拠点と私は考えたのです が、それは さして重要なことではなかったかもしれません。 兄の推論は確かにその可能性は高いというべきでしょう。ただそこまで言及するには、もうすこし確 実な史料がほしいというのが私の本音です。 たいと思います。この論文はおそらく印刷の関係で字数制限があったらしく、従ってついでに言及し たらしい本来迎図の流転の歴史についての叙述は舌足らずの文章になっていて、論旨不明確なところ があります。従って私の紹介文は私の論旨補足の部分があることをあらかじめお断りしておきます。 に伝来していなかったことを示す。 したと考えても矛盾しない。 してこの霊宝が叡山を去ったとは考えられないだろうか。 ろうことを反省しました。そこでをできるだけ史料に即して申し述べてみることにします。 菩薩像三幅自御所可拝見之由被仰下之」の記事があり、本来迎図は16世紀に入ってもなお皇室と深 いかかわりを持っていたことが知られます。そうすると本来迎図裏書の文章も誇張とは考えられず、 事実を語っていると思われます。 ず、他の寺院に移すとすれば、これは皇室の了解が必要であったろうというのが、私の考えです。 た。この敗北で秀吉はおそらく家康を武力で服従させることを断念したと思います。 何等相談もなく秀吉と和約したことで成功したといえるでしょう。 1月、家康の重臣石川数正の出奔(「家忠日記」)となって実現します。この事件前後に徳川方の秀 吉に知られたくない情報はすべて秀吉に筒抜けになったと思われます。 (天正14)年5月秀吉の妹旭姫と結婚、10月秀吉の母大政所三河岡崎城に入る、同月家康大坂城 で秀吉と会見、というように急速に秀吉への融和と従属政策に転換していった様子がうかがわれま す。 す。 ん。貴兄のいう通り本来迎図が伊賀・伊勢に留まった可能性もあると思います。ただ伊賀・甲賀衆と は違った徳川方の判断により、本図の帰属をめぐる処理が徳川方の手から秀吉方の手に移ったことは 確かでしょう。 に赴いたのと同じように、本来迎図もまた家康が秀吉に臣従した証としての役割を担わされたのでは なかろうか。 盟を強化し、武田勝頼に対抗しようとしたかけひきと本図の帰属をめぐる話し合いがよく似ていると |
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