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6 来迎図裏書の信頼性について
史料の信頼性については、他の確実な史料と比較してみて、重大な矛盾がなければ信頼性は高いと
いうべきでしょう。この裏書の内容については現在のところ他の確実な史料とつきあわせても重大な
矛盾は見いだせません。それは下記の諸点が理由です。
紀後半とする説が有力です。その具体的内容を紹介すると長くなるので論文名を挙げるに止めます。 従って裏書にはこの来迎図を「恵心僧都廿四歳真筆」といっていますが勿論誤りです。しかし筆者
がそう信じていたとすればこの裏書の信頼性を疑う必要はないでしょう。
(漢文読み下し文)とあり、これについては安楽(律)院は焼けておらず、再度比叡山に戻ったと思
われ江戸時代の二度目の安楽騒動後比叡山を出たのではないか。従ってこの裏書は信頼できないとい
う見解があります。詳しくは下記論文を参照してください。宮島新一「阿弥陀二十五菩薩来迎図の成
立と高野山阿弥陀聖衆来迎図の伝来について」(「芸術の理論と歴史」思文閣出版)
たと述べています。しかし宮島論文も国史大辞典に挙げられている文献にも安楽律院が焼けなかった
ことを立証する史料は提示されていません。
題にとって第二義的な問題です。もし自宅に火が迫ったとき、人は危険をさけて大事な宝物を安全な
ところへ避難させようとするのが当然でしょう。
館)の中の元亀・慶長の年記をともなう仏典の書写奥書に見え、実在の人物と考えられます。
には1583(天正11)年右兵衛佐に叙任されたことが見え、他の史料と矛盾しません。
とともに信長に対して比叡山焼き討ちを諫言したが、信長は聞き入れず、諸将士に延暦寺を再興しな
いことを誓わせたということです。すなわち佐久間信盛は焼き討ちに反対していたことがわかりま
す。
気付かず、信長の後をついていった失策を信長からなじられたとき、武将たちは信長に謝罪したが、
信盛のみは、そのように仰せられましても、我々ほどの家臣をお持ちになることはできません、と自
慢した。これに対して信長は「其の方は男の器用を自慢にて候か。何を以ての事、片腹痛き申様
哉。」といって機嫌がわるかったということです。
ます。比叡山焼き討ちの際、信盛はおそらく必死に見逃すことをねがった本来迎図を所持する僧侶の
言葉など聴いている暇はなく、本来迎図の価値などを知る余裕はなかったであろうことは貴兄の指摘
する通りだったと思います。だが焼き討ちに疑問をもっていたと思われる信盛がこの僧侶を見逃すこ
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