6 来迎図裏書の信頼性について

 史料の信頼性については、他の確実な史料と比較してみて、重大な矛盾がなければ信頼性は高

いというべきでしょう。この裏書の内容については現在のところ他の確実な史料とつきあわせて

        も重大な矛盾は見いだせません。それは下記の諸点が理由です。

         1 日本美術史家の間では本来迎図が天台浄土教の伝統をうけた来迎図で、その制作年代は十

二世紀後半とする説が有力です。その具体的内容を紹介すると長くなるので論文名を挙げるに止

        めます。

          安嶋紀昭「国宝阿弥陀聖衆来迎図について」(「国宝阿弥陀聖衆来迎図」 高野山霊宝館発行)
        

                従って裏書にはこの来迎図を「恵心僧都廿四歳真筆」といっていますが勿論誤りです。しかし

        筆者がそう信じていたとすればこの裏書の信頼性を疑う必要はないでしょう。

         2 裏書には「元亀二年九月(中略)武勇逆徒の手に奪われたりしが、再び仏家末山に集まれ

り。」(漢文読み下し文)とあり、これについては安楽(律)院は焼けておらず、再度比叡山に戻

        ったと思われ江戸時代の二度目の安楽騒動後比叡山を出たのではないか。従ってこの裏書は信頼

できないという見解があります。詳しくは下記論文を参照してください。宮島新一「阿弥陀二十

五菩薩来迎図の成立と高野山阿弥陀聖衆来迎図の伝来について」(「芸術の理論と歴史」思文閣

        出版)

         この外「国史大辞典」(吉川弘文館)の安楽律院の項も安楽律院は信長の焼き討ちにも焼けな

かったと述べています。しかし宮島論文も国史大辞典に挙げられている文献にも安楽律院が焼け

        なかったことを立証する史料は提示されていません。

         3 しかし安楽律院が焼き討ちによって焼けたか焼けなかったかは、本来迎図の山外持ち出し

の問題にとって第二義的な問題です。もし自宅に火が迫ったとき、人は危険をさけて大事な宝物

        を安全なところへ避難させようとするのが当然でしょう。

         4 経歴不詳の僧侶尊秀は裏書の執筆者と考えられますが、彼の名は「天台書籍綜合目録」(

法蔵館)の中の元亀・慶長の年記をともなう仏典の書写奥書に見え、実在の人物と考えられます。

 5 本多広孝については裏書に「本多右兵衛佐藤原広孝逆修入之」とあるが、「寛政重修諸家

譜」には1583(天正11)年右兵衛佐に叙任されたことが見え、他の史料と矛盾しません。
 
  「当代記」(大日本史料10−6 元亀2年9月12日条引用)によれば、佐久間信盛は武

井夕庵とともに信長に対して比叡山焼き討ちを諫言したが、信長は聞き入れず、諸将士に延暦寺

を再興しないことを誓わせたということです。すなわち佐久間信盛は焼き討ちに反対していたこ

        とがわかります。

         また「信長公記」巻六によれば、1573(天正1)年8月朝倉軍の撤退を信長配下の武将た

ちが気付かず、信長の後をついていった失策を信長からなじられたとき、武将たちは信長に謝罪

したが、信盛のみは、そのように仰せられましても、我々ほどの家臣をお持ちになることはでき

ません、と自慢した。これに対して信長は「其の方は男の器用を自慢にて候か。何を以ての事、

        片腹痛き申様哉。」といって機嫌がわるかったということです。

          これらの出来事から、佐久間信盛は信長のいいなりにはならぬ気骨ある武将であったことが知

られます。比叡山焼き討ちの際、信盛はおそらく必死に見逃すことをねがった本来迎図を所持す

る僧侶の言葉など聴いている暇はなく、本来迎図の価値などを知る余裕はなかったであろうこと

は貴兄の指摘する通りだったと思います。だが焼き討ちに疑問をもっていたと思われる信盛がこ

        の僧侶を見逃すことは当然ありえたと私は考えます。


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