5 友人S君の感想と論評

 1571(元亀2)年の信長の焼き討ちで破損したので、1587(天正15)年に修理した

と、本来迎図の表装裏書と軸木の銘に記されているというが、この資料はどの程度の信頼性があ

               るのですか? 貴兄の通信にある来迎図裏書の尊秀という経歴不詳の僧侶と関係あるのかな。

                  さて信長の全山焼き討ちというのもオーバーな表現であって、いくつかの坊堂は破損はしただ

ろうが焼け残り、あの来迎図もそのような状況で残っていたと考えてもおかしくはないのではな

かろうか。また、あの来迎図はいまでこそ来迎図の最高傑作として国宝に指定されているのだが

信長の時代に戦国武将がどの程度の関心を持っていたのかな?すばらしい宝物とおもっていたか

               な?小生は否定しているわけではなく、疑問を持つということです。

                  佐久間信盛は晩年に信長の信頼を失い、高野山に追放されたのだから、彼と高野山とのつなが

               りを考えるのは魅力的な着想なんだがな。
 
                  この図が比叡山から高野山に移った事情を物語る確実な資料が存在しないのはなぜか?変に勘

ぐると、この図を宝物として珍重していたのは一部の人たちで、比叡山の中でも軽く扱われてい

たのではないかと思いたくなる。私がこだわるのは、戦国期、織豊期は末法思想の時代ではなく

              (浄土教信仰はまだまだ盛んだが)、来迎図についての関心はさまざまの形があったと思う。

                   簡単に私の推理(論証ではない)を申し上げると、信長の比叡山焼き討ちのときこの来迎図が

あった安楽院付近を襲撃したのは佐久間信盛の軍勢で(伊賀、甲賀勢が加わっていた可能性は十

分にある)、信盛はこの来迎図に理解を示し、意識的に手心を加えることを命じたのではなかろ

うか。信長滅亡後、ほとぼりの冷めたころ安楽院にあったこの来迎図を修復したのだろう。そし

て佐久間信盛が高野山で死去した後、安楽院関係者と伊賀、甲賀勢のはからいで、信盛の冥福を

               祈ってこの来迎図を高野山に寄贈したのではなかろうか。

                織田信長軍の比叡山焼き討ちのとき、安楽院および「来迎図」は焼け残っており、高野山に移

ったのはその後のことだという説があるとのこと、私はこの説を全面的に否定するのはいささか

躊躇するのですが、今はそれは横においておき、焼き討ちのさい、山外に持ち出されたという説

               に沿って論を進めましょう。

                そこで尊秀筆の本図裏書の「元亀二年九月(中略)武勇逆徒の手に奪われたりしが」をどのよ

うに読み取るか考えてみました。貴兄の「1 比叡山焼き討ちと来迎図」には「本図は佐久間信

盛によって本図を所持していた僧侶から没収され、信盛配下の伊賀・甲賀衆によって、僧侶を伴

い山外に持ち出され、とりあえず、いずれかに保管するよう任されたのではないでしょうか」と

               ありますが、文中の僧侶とは尊秀のことですか?

                「僧侶」が二箇所ありますが、両方とも同一人物ですか? また「裏書」が記している「武勇逆

徒」とは誰を指すのですか? 貴兄の論考の中心テーマからはずれた些細なことのようですが、

裏書の筆者が尊秀なのでどうも気になるのです。私が勝手に読み取った筋立ては次のようです。

 織田軍の焼き討ちのさい、ある僧侶(尊秀ではない)あるいは武勇逆徒グループが本図を安楽

院から持ち出そうとしていたところを、信盛配下の伊賀・甲賀衆が見つけて没収し、信盛黙認の

               もとに尊秀を伴って本図を山外に持ち出したというのですが、それでよろしいでしょうか。

                 次に、安楽院の僧侶と伊賀・甲賀衆は本図が勅封蔵に保管されていたということから自分たち

の勢力範囲である伊賀・伊勢国内で皇室と縁の深い寺院に持ち込んだと思われるとあります。そ

こで私の質問ですが、本図を比叡山の外に持ち出したことは客観的には非法行為であるが、戦火

を逃れるために世間の目をはばかりながら一時的な避難場所として、その寺院に保管したと理解

してよろしいでしょうか? そしてその背後には徳川家康がついていたということですか。なか

なか面白い推測だと思います。その後の豊臣秀吉の1584(天正12)年の比叡山再興許可ま

               で、ほぼ10年間ほどそのような状況にあったのですか。

                裏書によると尊秀が施主となって1587(天正15)年に本図は修復されるのですが、それ

はどこで行われたのでしょうかね。1571(元亀2)年の焼き討ち以後、1587年の修復ま

での十数年間の空白は、まったくといってもいいほど史料がなくて明らかには出来ないことを、

私も十分に承知しています。しかし、現段階ではこの空白は埋められないことを確認することは

               、意味のあることではないでしょうか。
 
                織田軍の焼き討ちを逃れて「来迎図」が比叡山から持ち出されたという説に立つと、本図が伊

賀あるいは伊勢のどこかの寺院に、一時の避難場所として保管されたという貴兄の推論は、十分

にわかります。次に本図がその後播磨の姫路の書写山円教寺に持ち込まれたという推論に関して

               、貴兄のこの論文の最重要ポイントですから、私もゆっくり拝読しました。
 
                 小牧・長久手の戦いの後、豊臣秀吉と徳川家康の和睦が成立し、それにともなって本図の帰属

についての合意も成立、家康の家臣本多広孝の担当の下に本図が「仏家末山」に入れられ、その

寺院が書写山円教寺だということですね。そして姫路は秀吉支配の重要拠点ですから、本図も家

康の管轄からはなれて秀吉の管轄下に入ったというわけですね。この家康から秀吉への移動はど

のような理由によるものと考えればよいのですか?和睦にさいしての家康のプレゼントではある

まいし、秀吉がとくに望んだわけでもないでしょうね。本図をより安全・確実な保管者の下にお

きたいという願望からですかね。この時期には家康もかなりの権威・支配力を保持しており、わ

               ざわざ秀吉の下に移さねばならない必要があったのでしょうか。

                ところで、貴兄の「2 天台本覚思想と来迎図」には円教寺が本図の保管寺院になった根拠が4

項目示されています。私もそうだと思います。しかし、これをネガティフに読むと(1)関白に

就任している秀吉にとって姫路はかならずしも重要拠点とはいいがたいし、(2)も勅封蔵とい

う扱いもこの時期には消滅しているでしょうから皇室との結びつきはさほほど重視する必要はな

いでしょう。私なりに強引な推定を加えると、本図に付き添っていた安楽院出身の僧侶たちおよ

び本多広孝が、何らかの理由でとくに円教寺への移動を望んだということです。貴兄が指摘する

ように天台本覚思想・摩多羅神信仰が支配的で天台浄土教は衰退しつつある比叡山には復帰した

くないでしょうし、秀吉・家康も円教寺への移動は喜んで認めたことでしょう。貴兄が示した4項

目は切り離してみるとさほど重要ではないが4項目そろっている円教寺は有力候補となるのでしょ

うね。しかし、最終的には本図についていた僧侶と本多広孝の私的な判断や好みも大きかったの

               ではないでしょうか。       

                 貴兄が注目しておられる本多広孝とこの「来迎図」との結びつきは、どのように理解すればよ

               いのか、貴兄の論文を読みながら、私なりに推論を含めながら考えてみました。
 
                 織田軍の比叡山焼き打ちに広孝は参加していないから、本図持ち出しには関与していない。貴

兄の「2 天台本覚思想と来迎図」に、小牧・長久手の戦いの後の和睦にさいして本図をめぐっ

て秀吉側と家康側の折衝が非公式に進められ、その担当者が本多広孝であったと推定されるとあ

りますが、これが最初の結びつきということのようですね。ところで彼がなぜ担当者に選ばれた

のでしょうか。私のまったくの推測ですが、何らかの理由で(偶然も含めて)彼はすでに本図の

ことを知っていたように思われます。伊賀・甲賀衆と接触があり、その中の誰かから本図の比叡

山持ち出し聞いていた可能性もありますよね。彼が担当者に選ばれたのは、すでに本図と彼との

結びつきが存在していたからと考えると筋が通ります。1587(天正15)年の修復に彼が深

く関与していたことは本図裏書に記されているのだから、広孝と本図のかかわりは和睦交渉以前

に存在していたと見るのが自然なようですね。本図の姫路書写山円教寺への移転に彼が重要な役

               割を担ったことは、彼が本図の意義をよく知っていたからと思われます。
 
                 次に本図が高野山に持ち込まれた事情ですが、直接ではないまでも関係文献・史料が多くなり

、貴兄の推定ではない事柄が多くなりましたね。ところで一つだけ感想を述べますが、本図の高

野山移転の段階では、本図の宗教的意義よりも美術作品としての価値が評価されているようです

ね。貴兄の主張にも青巌寺落慶に関連してそのように考えていると思われる記述がありますね。

 織田信長の比叡山焼き討ちにさいして、本図は安楽院に残っていたという意見もあるそうです

が、貴兄の論文全体を読んでやはり山外に持ち出されたという貴兄の論考に同意します。同時に

持ち出しを実行したグループの状況を確認するのも必要だと思いました。もちろん持ち出しを黙

認した織田軍武将の究明も重要ですが、持ち出しグループは本図をどこに保存したのか、それが

               気になります。

                裏書に記されている武勇逆徒の手に奪われたというのは、文章表現上の修飾とかるく読むこと

にしますが、貴兄が述べた尊秀グループと伊賀・甲賀衆が持ち出しの主体と確認しましょう。こ

の持ち出しは略奪行為とは言わないまでも混乱の中での非常手段であることは明らかですから、

合法的なものではないわけですね。そこで、持ち出し後の本図は世間に公然と示すのをはばかり

、一時の避難場所にしずかに保管されていたと推測したいのです。貴兄の調査によってもその場

所を明らかに出来る記録や史料は存在しないとのこと、おそらく伊賀・伊勢のどこかの寺院であ

ろうと推測していますね。条件として伊賀・甲賀衆の勢力圏内であろうことは重要ですが、皇室

               と深い関係を持つ寺院と考えることは必要であるかどうか疑問です。
 
                 本図が勅封蔵の扱いを受けていたのは応仁の乱までぐらいで、その後は安楽院の僧侶など一部

の関係者の間だけの意識で、山外に持ち出された後の本図は実質的な皇室とのつながりはなくな

っていたように思われるのです。東大寺正倉院の勅封蔵は別格のもので、鎌倉時代以降いくつか

の地域に勅封蔵が存在しましたが室町後期にはその実質を失い、名目だけのものになっているよ

うですね。私は本図が持っている重要性を否定しているのではなくこのころ本図の意義がどのよ

               うに受けとめられていたか、それが気になるのです。
 
                 安土桃山時代に本図「阿弥陀来迎図」と皇室との関わりは、名目的なものはあったとしても

、実体はほとんどなかったというのが私の勝手な推測です。さらにまた、天皇の権威が戦国時代

から安土桃山時代にかけて復活したという考え方は、私もその通りだと思いますが、天皇を取り

巻く政治的軍事的諸勢力の動向が基本であって、天皇の自主的な指導力発言力が強化されたと見

るのは危険だと思っています。武家政権が天皇を利用したというような単純な考えではありませ

               んが、天皇が政治を動かす重要な力量を持つようになったとは思えないのです。

                さて、貴兄の「7 阿弥陀来迎図再論」には「本図が正倉院御物なみの勅封の扱いを受けてい

たという既成事実を考えれば、これは安楽院の僧侶の希望だけではすまず、やはり皇室の意向を

受けた秀吉政権のしかるべき人物が徳川家と折衝せざるをえなかったと思われる」とありますが

、どうもよく理解できないのです。「皇室の意向」とはどのようなものと考えるとよいのでしょ

うか。また秀吉政権のしかるべき人物は徳川家と何を折衝したのでしょうか。貴兄の「2 天台

本覚思想と来迎図」には、1584(天正12)年の秀吉の比叡山再興許可後も、本図が比叡山

に復帰しなかった理由が比叡山のそのころの宗教環境を背景にして説明されていますね。私はそ

の説明を私なりに理解して賛同しているのですが、貴兄が再論で述べている皇室の意向が介在し

ていたとは思えないのです。本図が播磨の書写山円教寺に移ったことを皇室に報告することはあ

ったとしても、皇室の意向に従ったと推測するのは不自然なように思えます。また小牧・長久手

の戦いの後の秀吉・家康間の和睦に天皇は介在していないし、本図が和睦の取引材料に用いられ

               たとは思えないのです。

                 秀吉の比叡山再興許可以後、一時的避難の場所であった甲賀または伊賀のどかの寺院にそのま

まとどまっていた可能性も、円教寺に移った可能性も、半々にあったと思われます。そのどちら

にせよ、皇室の意向は介在していないと思います。そしてまた、貴兄が重視している「当時の政

治情勢との関わり」がどのような内容のものかどうもつかみがたいのです。本図は重要な意義を

持つ作品ですから、何らかの形で政治情勢が関わりを持つことは十分にありうるとは思いますが

、この場合の具体的な内容が想定できないのです。このころ秀吉は関白太政大臣に就任し、惣無

事令を発して、天下支配へ大きく前進していたのですが、本図と何か関係を持ったでしょうか。

               よくわかりません。

                 貴兄の「来迎図再論」を再度拝読し、私の読み取りが不充分であったことがよくわかりまし

た。本図が16世紀に入ってもなお皇室と深くかかわっていたことが了解できました。皇室の指

               示に従うというわけではなくとも、かならず皇室に報告・連絡していたのですね。

                  小牧・長久手の戦いの戦後処理については、貴兄の説のように秀吉は巧妙に立ちまわってい

ますね。秀吉は信雄・家康とそれぞれ個別に和睦交渉を進めています。まず信雄と単独に和睦し

、ついで同時に家康にも秀吉との和睦を同意させ、信雄・家康の連合を分断しましたね。そして

               家康は形の上では秀吉に臣従する方向に進むわけです。

                  本図が徳川方から豊臣方の手に移ったのは、たしかに家康が秀吉との融和・臣従関係に転換し

た中でのことという貴兄の推論に同意できます。なお織田信長が上杉謙信に洛中洛外図を贈った

のは、この作品が完全に信長の私有物でしたから何の障害もないと思いますが、この来迎図は家

康の私有物とはいいがたいので、いくらか事情が異なると思いますが、管理権の移転と考えると

               大同小異のことといえますね。

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