4 密教の再建と来迎図
高野山は教団の支配権をめぐって対立抗争が激化しました。また度々の火災による堂塔伽藍
の焼失等もあって高野山は荒廃していきました。
高野山の再興は空海の直弟たちとは無縁な外来の念仏聖たちによって担われ、摂関家の帰依を
受けるようになって、高野山も次第に繁栄をとりもどしました。高野山の浄土教はほとんどこの
ような外来の念仏聖たちによって隆盛にむかいました。中世には重源・明遍などのように、天台
系の法然の影響を受けた僧たちも少なくなかったのです(井上光貞「日本浄土教成立史の研究」
第四章第一節 山川出版社)。
一方同じころ、覚海によって正統的密教教学の復興が企てられていました。すなわちその弟子
道範が不二門、法性が而二門を主張し、二学派が形成されるにいたりました。この教学の内容は
難解ですが、栂尾祥雲「秘密仏教史」(第三 日本の密教二一 南山教学の大成 隆文館)の助
けを借りて、私が理解したことを下記の諸点にまとめました。
1 この時代の教学でもっとも注目された論題に本体論と教主論があった。
2 本体論とは空海が「即身成仏義」三(弘法大師空海全集第二巻 筑摩書房)で展開した宇
宙論で、宇宙の本体(六大)をもって「生みだすもの」とし、四種類の仏の身体(四種法身)、
三種類の世界(三種世間)を「生みだされるもの」としている。
3 この「生みだされるもの」は仏から六道の生きものに及ぶまで、粗大なものと微細なもの
との差異があるが、六大を超えることはない。
4 四種法身は一であるか多であるかという点で、「吽字義」二別釈第四(前掲全集第二巻)
において、空海はその数は無量であるが、その本質や姿は一体で本体も同一であるといっている。
5 このことを我々が理解するために、一に重点をおくべきか、多に重点をおくべきかという
点について前者の立場を不二門、後者の立場を而二門と呼ぶのである。
6 この本体論の見解の相違が教主論にも及び、不二門を主張した道範は理智不二の法身が両
部の大経(大日経・金剛頂経)を説いたと考え、而二門を主張した法性は唯智の法身が「金剛頂
経」を、唯理の法身が「大日経」を説いたと考えた。
やがて南北朝〜室町時代にかけて、無量寿院の長覚・宝性院の宥快があらわれ、それぞれ不二
門・而二門思想を継承発展させました(上田秀道編「長覚尊師と宥快法印」長覚・宥快両先徳五
百回忌報恩会)。長覚は1416(応永23)年門弟を集め、「我将に寂せんと欲す。(中略)
我れ仏国土に往生するを願はず。再び人間界に輪廻して迷群を導かん。之れ高祖の教示し給へる
即身成仏なり。何ぞ往生浄土を願はん。汝等また高祖の御遺誡を奉持して夢亡失するなかれ。」
と述べて死去したといわれます。この長覚の遺言に真言密教本来の浄土思想の特徴がよく現れて
いると思います。
不二門思想は本覚思想を基礎とし、ややもすると現実に陶酔して理想を失い、浄化向上を忘れ
て男女の性交を即身成仏の秘術とする立川流のような淫祠邪教を採り入れる者もありました。
これに対して宥快は而二門思想の立場から立川流を徹底的に論難したことで有名です。而二門
教学は不二門教学と等しく密教の立場にたつのですが、修行者の修行の体験を重視し、即身成仏
を実現するには理具(実現し得る原理)・加持(実現するための方法)と顕得(実現できた結果
)の三つが必要で不離一体のものであると説きました(栂尾「前掲書)。長覚・宥快は平安時代
以来、浄土教など他系統の思想の混入した高野山の教学を、密教を基本としてたてなおしたとい
うことで、これを応永の大成と呼んでいます。
応永の大成によって高野山の浄土教はなくなったわけではありません。1274(文永11)
年一遍が高野山に上り(「一遍上人絵伝」巻二第八段 日本の絵巻20 中央公論社)、千手院
近くの国城院にしばらく住んだことがあったので、やがて千手院谷の時宗が高野聖を時宗聖に変
化させる中心となりました。高野聖の廻国と勧誘によって高野参詣や納骨が盛んとなりましたが
廻国の費用をかせぐために、高野聖の商売活動がおこなわれ、その堕落も次第に著しくなりまし
た(五来重「増補=高野聖」一八 高野聖の末路)。
南北朝期から高野聖の時宗化が進みましたが、このような傾向は高野山の伝統と矛盾するので
、高野山では高野聖の迫害がおこなわれるようになりました。一方信長に反乱を起こした荒木村
重の家臣は、1580(天正8)年高野山に入り保護を求めました。高野山は彼等を保護したた
め、堺町奉行の松井友閑の兵が高野山に上り、荒木浪人捜索を理由に乱暴を働いたので、高野山
側は松井友閑の兵を殺害するに至りました(「信長公記」巻十四、「高野春秋」巻第十二 天正
8年8月17日条)。友閑がこの事件を信長に報告すると、信長は激怒して配下の武将に命じ、
諸国に廻国する多数の高野聖を殺害させました。このように高野聖は高野山内外の迫害を受け、
1606(慶長11)年の真言帰入令(「高野春秋」巻第十三 慶長11年9月条)によって、
山内の時宗徒は強制的に真言宗に改宗させられるにいたりました。
こうして高野山の浄土教は、僧侶の心の中まではわかりませんが、外見上姿を消してしまった
のです。
本来迎図を青巌寺持仏堂本尊として寄進(多額の金品の贈与が伴ったであろうことは想像され
ます)する際無理を承知で根回しに動いたであろう陰の主役の存在が予想されますが、ではその
役割を果たしたであろう人物は誰だったのか推論してみましょう。その人物とは(1)皇室につ
よい影響力をもつ上流公家で、(2)豊臣・徳川両家とも密接な関係にあり、(3)本来迎図の
行方についても知ろうと思えば知ることのできた人物だったと思われます。
1594(文禄3)年大政所三回忌の追善供養が行われたとき、高野登山した人物の中に近衛
前久(龍山)がいます(「紀伊続風土記」高野山之部卷之十一 寺家之一 青巌寺)(渡辺世祐
「豊太閤の私的生活」第一編第七章 講談社学術文庫)。この人物の生涯をたどって年表風にま
とめると下記の通りです(谷口研語「流浪の戦国貴族 近衛前久」中公新書によって作成。年表
の史実はほとんど「大日本史料」で確かめることが可能です)。
1536(天文 5)年 誕生
1554(天文23)年 関白
1566(永禄 9)年 松平家康の徳川改姓と叙爵・三河守任官を斡旋
1568(永禄11)年 新将軍義昭との確執により大坂へ出奔。関白免官
1575(天正 3)年 帰洛
1579(天正 7)年 このころ信長より二条に居邸を給与される
1582(天正10)年 太政大臣任官すぐ辞任。本能寺の変後、織田信孝・羽柴秀吉と隙
を生じ剃髪。徳川家康の許へ下向。このとき本多広孝と面識あり
1583(天正11)年 家康のとりなしで帰洛
1584(天正12)年 小牧・長久手の戦い勃発により奈良へ出奔。美濃へ下向して秀吉
の赦免を得る
1585(天正13)年 秀吉を猶子とし、秀吉関白任官
1586(天正14)年 娘前子を秀吉の養女とし、後陽成天皇の女御として入内
1589(天正17)年 秀吉・家康らの懇望により「鷹百首」を編述
1612(慶長17)年 死去
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