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3 高野山と来迎図
小牧・長久手の戦いの和睦後、翌1585(天正13)年3月秀吉は紀伊の根来寺を攻撃、同寺は
ほとんど焼失しました。さらに雑賀の一向一揆を滅亡に追い込むと、彼は高野山に使節を送って屈服
を迫りました。このとき比叡山と同様の壊滅の危機を乗り越え、高野山を滅亡から救うために手腕を
発揮したのが木食応其という僧侶でした(和多昭夫「木食応其考」日本仏教宗史論集第四巻)。
かし晩年近江国甲賀郡飯道山の飯道寺に隠退して余生を送ったことを考えると、彼は若年のころから
飯道寺と深い関係があったと推定されます。飯道山には平安初期飯道神が祭られ(「日本三代実録」
元慶8年3月27日条)、やがて仏教と習合して飯道寺が開創され、平安末期には比叡山の末寺とな
りました(「飯道寺縁起」 肥後和男「滋賀県史蹟調査報告」第五冊)。
た(中条真善「当山派修験」山岳宗教史研究叢書三)。
と思われます。
之部巻之三十七 高僧行状之部巻之四 木食興山上人伝)、したといわれます。その高野山における
地位は客僧と呼ばれ、学侶(学僧)・行人(寺院・法会の雑役に従事する下級僧侶)・聖(大師信仰
を広めながら、勧進をして歩く僧侶、いわゆる高野聖)という高野三方のいずれにも属さない存在で
した。彼が客僧であったにもかかわらず、後に高野山を代表するようになった理由は秀吉の根来攻め
の際、秀吉の使いとして応其が派遣され(辻「前掲書」第七巻第九章第六節)たことが示すように、
彼が秀吉と旧知の間柄であったからでしょう。
にはいりました。同年6月秀吉は高野山への信仰に厚かった母大政所の逆修のため金堂再建の費用と
して米一万石を寄進しています。秀吉がいかに応其を信頼していたかは「高野の木食と存ずべから
ず、木食が高野と存ずべき旨、各衆僧に申し聞かすべし。」(天正14年7月28日 「続宝簡集」
51 大日本古文書家わけ一の三)という秀吉の言葉に言い尽くされているといえるでしょう。
軍門に下りました(「旧記雑録後編」二巻二十 鹿児島県史料)。
8年9月28日条 以下高野春秋と略)され、秀吉は後陽成天皇に奏請して勅額が同寺に掲げられま
した。
り、応其は行人勢力に接近するようになりました(和多昭夫「前掲論文)。
吉の母大政所が死去しました。
門(寿門と宝門、学侶はいずれかに属して勉学)主すなわち無量寿院行昌、宝性院政遍と相談して、
1593(文禄2)年剃髪寺(青巌寺)が創建(「高野春秋」文禄2年7月22日条)されました。
飯道寺に隠退、1608(慶長13)年同寺で死去しました(「大日本史料」12ー5 慶長13年
10月1日条)。
自己の新たな権威付けとして山内に新寺院を建立し、各種の宝物や美術作品を導入したいと考えたよ
うです。1594(文禄3)年亡母三回忌追善法要と青巌寺落慶に伴う追善法要で奉読された願文
(「紀伊続風土記」高野山之部巻之十一 寺家之一 青巌寺)の持仏堂を紹介した部分に「無量寿仏
加廿五菩薩、是如来者源信僧都為悲母之三菩提書写本尊云々本聞叡山霊宝畢。」とあり、この持仏堂
本尊が本図であるならば、本図は剃髪寺が落慶した1593(文禄2)年にはこの寺に伝来していた
と考えられます。なおこの願文は高野山正智院文書として「大日本史料」(2−11 寛仁元年6月
10日条)にも紹介されています。
この願文の記述者宝性院政遍は持仏堂本尊が本来比叡山の霊宝と聞いていたと言っていますが、で
は彼はこのことを誰から聞いたのでしょうか。それは既に述べたように青巌寺建立を秀吉に命ぜられ
た応其は両門主と相談しており、また政遍は応其の受戒の師でもあったようですから、政遍は応其か
ら持仏堂本尊の由来を聞いたに違いないのです。
たのだと思います。秀吉にとっても青巌寺に本図が贈与されることは亡母のためにも、本図のために
も適切で満足であった違いないでしょう。
れを傍証すると思われる史料があります。
大力尊影」があり、これは弘法大師が東寺において自分で描き、堂の本尊としたものを、天正年間豊
太閤が天皇への奏聞を経て当寺に収めたと説明されています。この「五大力尊影」は後に興山寺に移
された本図とともに有志八幡講所蔵とされている「五大力吼菩薩図」三幅[本来五幅あったが、明治
廿一年の高野山大火で二幅焼失]に相当するものと考えられています。「紀伊続風土記」がいかなる
史料によってこのような記述をしたのかは不明ですが、これが正しいならば、本図は「五大力尊影」
と同じように、応其が秀吉に要請して高野山の宝物とした可能性が高いと思われます。
係が深いのは興味があります。例えば(1)高野山の念仏聖の一人静遍の父平頼盛は栄西の保護者で
あった(「元亨釈書」巻第二伝智一之二)。(2)栄西は入宋時高野山の念仏聖の一人となった重源
と同行した。(3)栄西の弟子退耕行勇は高野山金剛三昧院の第一世となったなどが挙げられます。
持ち出された翌々年です。それまで彼は近江甲賀郡飯道寺山伏であったと推察されるから、本来迎図
に関する情報を入手できる立場にあったと思われます。
鎌倉時代以来の密接な関係から、応其はいちはやく知ることが出来たに違いないのです。あるいは同
年秀吉の九州出兵に同行した応其は秀吉かまたは同じく九州に派遣された本多広孝から本図の話しを
聞いた可能性が高いと思われます。
こった安楽騒動(辻「前掲書」第九巻第十章第十三節)後山外に出たのではないかとする説(「6 来
迎図裏書の信頼性について」)を主張しています。
二百五十戒の兼学を主張することで、これによって叡山退廃の風潮を矯正しようとしました。しかる
に反対派は安楽派の説く兼学律は伝教大師の精神にそむくとして小乗四分律の兼学に反対対立しまし
た。安楽騒動は比叡山に戒律復興をめざして起こった運動であり、安楽派も反対派も比叡山教学の再
興を目標とした点で共通していました(辻「前掲書」第九巻第十章第十三節)。それならばもし本図
が安楽騒動のおこるまで比叡山にあったとしても、この騒動によって本図が山外に出なければならぬ
情勢であったとは考えがたいのです。
昭説(「来迎図裏書の信頼性について」)を条件付きで支持します。ではなぜ条件付きとするのか。
中世末から近世にかけての高野山の宗教的環境はまさに本図が比叡山から持ち出されたころの情勢
と同様で、本図を高野山に持ち込むことには、当時の皇室をはじめ、本図を保存し守ってきた人々
(尊秀はこのころまでまだ生存していたのではないでしょうか)にとってもはなはだ違和感にみちた
ものであったでしょう。 |
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