2 天台本覚思想と来迎図

     

    天台本覚思想は難解で理解しにくいので、主としてインド哲学専攻の末木文美士「日本仏教史

ー思想史としてのアプローチ」(新潮社)に助けを借りて、その要点をまとめると下記の通りです。

 

1 本覚とは仏典「大乗起信論」にあらわれる概念で、それは迷いの心の中にある内在的悟りである

 

とともに、目標としての悟りである。

 

2 この悟りに到達するには輪廻を繰り返し、しかも困難に耐えて修行しなければならぬ。

 

3 やがて悟りと迷いとのへだたりを圧縮する傾向が現れる。たとえば密教の即身成仏思想 は現世

 

において悟りに到達できるとされる。

 

4 ついには衆生のありのままの状態がそのまま悟りのあらわれである。従って悟りを求めて戒律を

 

るなどの修行をしなくてもよいとの考えになる。

 

5 それは衆生のみならず草木国土すべてが悟りを開いているとされるにいたる。このような思想

 

本覚思想である。

 

6 このような本覚思想の立場からみると浄土教はどのようになるか。この世界は即ち悟りの世界で

 

あるから、この世界とは別に浄土があるのではなく、「己心の浄土」とか「己心の弥陀 」が強調さ

 

る。

7 平安末期ころから天台本覚思想の秘授口伝を収集して文献化され、鎌倉中期ころに体系的に組織

 

化されてくる。

8 かくして最終的には江戸時代の安楽騒動によって天台本覚思想は衰退していくのである。

 摩多羅神は円仁が入唐の帰途、船中で神が自ら念仏の護法神であることを宣言したので、常行
三昧

 

堂に勧請されるようになったといわれます(光宗「溪嵐拾葉集」巻第39 一、常行堂摩多羅神之

 

事)。これは事実かどうか不明ですが、常行三昧堂や他宗派の阿弥陀堂にもこの神を祭るのが慣

 

例となっていました。このように念仏の守護神として脇役に過ぎなかった摩多羅神はやがて天台本覚

 

思想の二流派ー恵心流と檀那流ーの中檀那流の三大秘法の一つ玄旨帰命壇灌頂の本尊として重視され

 

るようになり人の願いを満たさぬことはないと言われるようになりました。摩多羅神は画像の場合が

 

多いが、その神像は鼓を打つ姿勢で、左右の童子は舞をまう有様に描かれています。

 

 その童子の歌う歌とは釈義からこの画像は三毒(貪瞋癡)の象徴とされ、卑猥な文意を含んでいま

 

す。

 

 さらに摩多羅神は阿弥陀の変化で、来迎引接の阿弥陀三尊として現れるとも言われているのです。

               硲 慈弘「日本仏教の開展とその基調」下巻(名著普及会)

               山本ひろ子「異神ー中世日本の秘教的世界」(平凡社)
                           
  中世末の比叡山には、天台本覚思想や摩多羅神信仰だけではなく、伝統的な天台浄土教もその

 

命を失ってはいませんでした。

 例えば真盛(天台宗真盛派)(1443ー95)は伊勢の国司北畠氏に仕える武士の子として

 

生まれ、やがて尾張篠木の密蔵院に学び、19歳で比叡山に上りました。以後20年間山に籠も

 

り天台教学の考究に没頭、破格の僧侶としての出世街道を歩みました。

 しかし1482(文明14)年彼は比叡山西塔を去り、一切の地位を捨て黒谷の青龍寺へ隠遁念仏

 

にあけくれるようになりました。1485(文明17)年後土御門天皇に「往生要集」を講義、天皇

 

から布施と女房奉書を下されたが、女房奉書のみ受け取ったので「此聖天性無欲者也」(「後法興院

 

記」文明17年12月8日条)といわれたほどでした。

 彼は各地を教化のため遊歴し、その足跡は近江・越前・伊勢・伊賀・山城・摂津・和泉・河内
に及

 

び、1490(延徳2)年には伊勢に西来寺を創建、明応4年伊賀西蓮寺で逝去しました。
        

(辻「前掲書」第五巻第八章第十節)

 

 比叡山の飯室谷・安楽谷にも同様の浄土教の伝統が生き続けていたと考えられます。比叡山の伝統

 

的信仰を守ろうとする五別所とは一説(「けん驢嘶餘」群書類従第28輯雑部)によれば東塔の神蔵

 

寺、西塔の黒谷、横川飯室谷の霊山(院)・帝釈寺、同安楽谷の安楽院であったということです。と

 

ころが玄旨帰命壇灌頂は東塔北谷より起こり、後東塔の神蔵寺と横川の帝釈寺に伝流して近世に至っ

 

たといわれます(景山春樹「神道美術の研究」臨川書店)。つまり五別所のうちの二箇所が玄旨帰命

 

壇の拠点化していったわけです。そしてこの帝釈寺が比叡山を代表する寺院の一つとしてキリスト教

 

宣教師にも注目されていたようです(松田毅一「近世初期日本関係南蛮史料の研究」第五章第一節 

 

風間書房)。
 
 やがて安楽院も衰退の一途をたどったことは1693(元禄6)年天台座主公弁法親王の次ぎの文

 

章を読むとよくわかります。「僧儀大廃、真風幾息(ほとんどやむ)。この時に当たり、有志の者、

 

独り別院に居り、専ら毘尼(律)を研す。飯室安楽院これその一也。降て近世に至り、別院又その則

 

を失う。誰か悲歎せずや。」(「天台霞標」四編巻之四)。

  かくして別院(別所)も中世から近世にかけて比叡山の大勢に呑み込まれて衰退していった様子

 

がよく解ります。

 本図を比叡山から持ち出す際、一緒に山外に逃れた僧侶が本図の比叡山復帰に難色を示したとすれ

 

ば、本図を比叡山から避難させた伊賀・甲賀衆は、本図の山外持ち出しを黙認したと思われる佐久間

 

信盛・明智光秀はこの世になく、この問題の処理を徳川家に委ねる以外に方法はなかったでしょう。

 徳川家がこの問題の処理にのりだした理由は(1)徳川家が伊賀・甲賀衆を比叡山焼き討ちに参加

 

させて起こった問題であること、(2)徳川家は浄土宗に帰依しており、それは絵画などを重視する

 

天台浄土教の伝統に近い二派であったこと、などによると考えられます。

 

 浄土宗を開いた法然は称名念仏によって往生できるとする専修念仏の立場をとり、来迎図などの絵

 

画を称名念仏の助業として位置づけ、往生にとって浄土教絵画は第二義的なものとしました(熊谷直

 

実入道へつかわす御返事「日本思想大系」10)。

 これは源信が極楽浄土を観察する観想念仏を称名念仏より重視し、浄土教彫刻や絵画を高く評価し

 

た態度と異なるところです。しかし法然の影響を受けた弟子たちは、かならずしも法然の専修念仏説

 

に忠実とは限らず、むしろ源信の諸行往生説にたつ人々も少なくなかったのです。例えば法然の門下

 

の証空によって開かれた西山派や、弁長によって開かれた鎮西派などは法然よりも源信の立場に近か

 

ったと言えるでしょう(井上光貞「日本古代の国家と仏教」後編第1章第1節 岩波書店)。

 1451(宝徳3)年徳川氏の祖先松平信光は三河岩津に信光明寺(鎮西派)を開き(新編「岡崎

 

市史」中世 第2章第2節)、やがて後土御門天皇は同寺を勅願所としました。また1461(寛正

 

2)年には同じく岩津に妙心寺(西山派)を建立しました。また1475(文明7)年松平親忠は三

 

河鴨田に大樹寺(鎮西派)を開き(大樹寺旧記「愛知県史」別巻第3期4章)、やがて後奈良天皇は

 

同寺を勅願所としています。

 秀吉が比叡山の再興を許可したときとほぼ同時に、織田信雄・家康と秀吉の関係は急速に悪化し1

 

584(天正12)年小牧・長久手の戦いが起こりました(「皆川文書」)。しかし同年末秀吉は信

 

雄・家康と和睦しました(「宗国史」)。

 1585(天正13)年秀吉は関白となり家康の上洛を催促したが、家康は拒絶、そこで秀吉の異

 

父妹旭姫を家康と結婚させ、秀吉の母大政所を人質として三河に旭姫を訪問させました。かくして翌

 

年10月家康は大坂城で秀吉と会見(「宇野主水日記」)、家康はこれで秀吉政権の一翼を担うにい

 

たったのです。

 本図をめぐる秀吉側と家康側の折衝はおそらく天正12年秀吉と家康の和睦から天正14年家康の

 

上洛ころの間に非公式に進められたと思われ、その担当者が本多広孝であったと推定されます。

 

 本多広孝の略歴を「寛政重修諸家譜」から抜粋すると次ぎの通りです。

   1527(大永7) 土井に生まれる。

   1563(永禄6) 一向宗徒と戦う。

   1570(元亀1) 姉川の戦いに参加。同年信長が朝倉・浅井連合軍と近江滋賀で対陣の際、

 

家康の命により、石川家成とともに援軍として発向。このとき秀吉と美濃洲俣で会見。

   

  1572(元亀3) 三方ヶ原の戦いで武田軍と戦う。

   1575(天正3) 長篠の戦いに参加。

   1583(天正11) 従五位下右兵衛佐に叙せらる。

   1584(天正12) 長久手の戦いに参加。

   1587(天正15) 秀吉の九州出兵に参加。戦功により、秀吉から脇差や黄金十枚・羽織

                    

などを与えられた。

   1590(天正18) 小田原陣に参加。

   1596(慶長1) 白井にて死去。

     本図裏書(中幅)の内容概略は下記の通りです。

  比叡山別所安楽谷大阿弥陀尊像二十五菩薩同山越三尊化仏等、以上三十三体(中略)。本図は霊宝

 

であったから勅封蔵に納められ、昔より七月十五日に勅使が参降して開封する習慣があり、一日に貴

 

賤参詣無数。然るに元亀二歳九月山上山下破滅の刻武勇逆徒の手に奪われたが、再び仏家末山に集ま

 

った。今この尊容に遇えるのは喜ばしい。そこで諸人の寸志を募り、表具を荘厳にした。

 天正十五年乙(丁の誤り)亥五月十五日

        施主     法印 尊   秀
       表補衣師   馬椙甚三郎秀昌

 左幅・右幅の裏書の文章は大同小異です。本多広孝に関する「6 来迎図裏書の信頼性について」

 

(後述)で示した書き入れは裏書本文とは異筆です。 本図裏書の全文は「高野山文書」第四巻有志

 

八幡講文書(高野山文書刊行会)に収録されています。

 天正十五年は本多広孝の還暦にあたり、おそらくこうした形で「仏家末山」に本図を入れたことが

 

秀吉側と家康側の合意した本図の帰属をめぐる解決だったのではないでしょうか。

 では裏書に見える「仏家末山」とは何処であったのか、推理してみましょう。

 「天台書籍綜合目録」によれば、本図裏書の執筆者と考えられる尊秀は実在の人物と推定される

 

「6 来迎図裏書の信頼性について」と述べました。さらにこの僧侶は長楽寺(群馬県新田郡尾島町

 

世良田)ならびに密蔵院(愛知県春日井市熊野町)と密接な関係があったことが解ります。両方とも

 

栄西の葉上流台密の流れをくむ名刹です。密蔵院については、詳しくは「春日井市史」第二編第三章

 

第二節を参照して下さい。

「長楽寺文書」(Vー二 都法灌頂秘録)によれば、同じ密教灌頂秘録を鎌倉時代に飯室安楽谷奥房

 

の僧侶と長楽寺の僧侶が回覧し、おそらく書写したと思われ、安楽院と長楽寺はすでに鎌倉時代に密

 

接な関係があったようです。とすれば尊秀は安楽院の僧侶で、本図とともに比叡山を逃れ付き添って

 

きた僧侶である可能性が高いと思われます。

 一方本図を受け入れた「仏家末山」とは(1)秀吉政権の勢力圏内における重要拠点に近く、しか

 

も(2)皇室・秀吉政権との関係も深く、(3)天台浄土教の伝統を伝え、(4)台密葉上流とも関

 

係深い寺院であろうと思われます。この(1)〜(4)の条件を満たす寺院の一つとして、私は播磨

 

国の書写山円教寺をあげたいと思います。

 書写山円教寺は姫路にあります。秀吉は1577(天正5)年信長の命により播磨に出陣すると、

 

小寺孝高の姫路城に入り、ここは秀吉の中国地方攻撃の拠点となりました。翌年播磨上月城をめぐる

 

毛利軍との衝突時に、秀吉は一時書写山に砦を築きました(「信長公記」巻十一)。1583(天正

 

11)年秀吉が大坂城に移るまで、姫路城は秀吉領国の中心であり、大坂城が秀吉政権の中心となっ

 

て以後も、秀吉一族が姫路城を領有しました。

 一方播磨書写山を開いたのは法華持経聖の性空で凡そ10世紀中期から11世紀初めころの人で

 

す。九州で山岳修行後書写山に草庵を営み、胸に阿弥陀仏像の入れ墨をしていたそうです。彼の徳行

 

はやがて近隣に知られ、「梁塵秘抄」(巻第二 297)にも書写山が歌われるようになりました。

 986(寛和2)年花山法皇は書写山に性空を訪問、性空の奏請により円教寺は院の御願寺となり

 

ました。同法皇は再度書写山を訪問しています(「書写山上人伝」朝野群載巻第二 文筆中 )。

 

 源信も書写山を訪問、源信を性空にひきあわせたのは「日本往生極楽記」の著者慶滋保胤であ

 

ったようです(「兵庫県史」第1巻第1編第8章2)。

  鎌倉時代臨済禅をわが国に伝えた栄西の弟子の一人に釈円栄朝という僧侶がいます。彼は新田義

 

季の保護の下に長楽寺開山となりました。その弟子一翁院豪が栄朝の後長楽寺を受け継ぎましたが、

 

その弟子に月船しん海という僧侶がいました。彼は1231(寛喜3)年播磨国加古郡の生まれで、

 

幼時出家して書写山の僧となりました。やがて彼は長楽寺に赴き、一翁院豪に師事して数年参禅しま

 

した。一説によると月船しん海は書写山にいたころ、台密蓮華院流を釈円栄朝の弟子栄宗から伝授さ

 

れたともいわれています。月船しん海の死後彼の法流を伝承するために、書写山の僧侶は正覚院とい

 

う塔頭を建立しました。正覚院では毎月廿六日に密教法会が行われ、またしん海の法流を受け継ぐ僧

 

侶たちはしばしば上野(長楽寺)に赴いたといわれています(「兵庫県史」第二巻第二編第三3)。

 私は円教寺文書(姫路市史)を一読しましたが、本図との関わりを示す文書を発見することはでき

 

ませんでした。しかし私のこの推論が正しいなら、本図に付き添った僧侶はこの円教寺の宗教的環境

 

に満足したのではないかと思います。


                 
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