1 比叡山焼き討ちと来迎図

     高野山聖衆(阿弥陀二十五菩薩)来迎図(三幅)は中幅だけでも縦横2bを越える大図で、信

    長の比叡山焼き討ちの際、これをこっそり持ち出すことは不可能であるとすれば、信長軍の有力

    武将の誰かが本図を奪取して秘かに山外に持ち出すことを黙認したのであろうが、では其の有力

    武将とは誰か。

      辻善之助「日本仏教史」第一巻第五章第二節によれば、「両大師伝記」を根拠に木下藤吉郎

    秀吉が比叡山焼き討に参加し、彼が本図の山外持ち出しを黙認した可能性が高いことを示唆(同

    書第七巻第九章第二節)していますが、秀吉の比叡山焼き討ち参加については、信頼性の高い「

    信長公記」(角川日本古典文庫)には見えず、このことを立証する確実な史料はありません。

    辻氏が根拠とする「両大師伝記」は天海の弟子胤海が元禄時代に近い17世紀後半に書いた記

    録です。また愛知県の旧家の土蔵から発見されたという「武功夜話」(人物往来社)には秀吉の

    比叡山焼き討ち参加を物語る証言が記されていますが、それを否定する証言もあり、到底信用で

    きるものとは言えません。

     それでは本図持ち出しを黙認した可能性の高い武将とは誰か。私は信長軍の武将佐久間信盛で

    、明智光秀もある程度の可能性があると考えます。佐久間信盛ならば比叡山焼き討ち参加を示す

    史料は大日本史料に挙げられており、明智光秀も比叡山焼き討ち後、坂本城主となっていること

    が「信長公記」にみえるからです。

     本図の山外持ち出しを黙認した信長軍の有力武将として佐久間信盛・明智光秀の可能性が高い

    と私が判断したのは次のような理由からです。

    1 比叡山焼き討ち後、比叡山・日吉社領は明智光秀・佐久間信盛・柴田勝家・中川重政・丹

    羽長秀の五武将に与えられ、信長は南近江の在地領主の多くをこれらの武将の与力として附属さ

    せた。

    2 佐久間信盛に附属された新与力はすでに1570(元亀1)年5月(焼き討ち以前)に発足してい

    たと考えられその一人は甲賀出身の山岡景隆と推定される。

    3 明智光秀には山岡景隆の弟景佐・景猶が附属されたと推定される。

     (谷口克広「元亀年間における信長の近江支配体制について」日本歴史471号)

    4 本来迎図の山外持ち出しを黙認したのは、この五武将の一人であろう。

    5 本来迎図が家康の家臣本多広孝と関係があったことを考えると、黙認した武将は焼き討

    ち以前、徳川家と密接な関係にあった人物であろう。

    6 佐久間信盛は1567(永禄10)年家康の嫡男信康と結婚した信長の娘五徳に付き添って岡崎に

    赴いており(「家忠日記増補追加」巻之三)、徳川家に知られた武将であった。他の四武将には

    焼き討ち以前徳川家とはそうした関係は見られない。

     信長の比叡山攻撃に先立つ1571(元亀2)年4月、武田信玄は三河吉田城で家康と戦っている(「孕

    石文書」)ので、徳川軍が信長の比叡山攻撃を援助する余裕はなかったと思われます。だから本多

    広孝が比叡山攻撃に参加したはずはないし、また「寛政重修諸家譜」(続群書類従完成会)巻第6

    91に見える本多広孝の略伝にもこのことは記載されていません。

     では本多広孝と本来迎図の接点はどうして生まれたのか。私の推定では、徳川家康は同家と関

    係の深かった伊賀・甲賀衆を比叡山攻撃に参加させたと考えられます。例えば伊賀者服部半蔵正

    成は家康の今川人質時代から仕えて戦功をあげ(諸家譜巻第1168)、甲賀者も1563(永禄6)

    年に起こった三河の一向一揆の際家康に用いられて戦功がありました(辻前掲書第六巻第八章第

    十二節)。
     
     信長の比叡山攻撃に伊賀・甲賀衆が参加したとすれば、佐久間信盛と明智光秀の指揮下におか

    れた甲賀出身の山岡氏の配下にいたようで、このことは「信長公記」巻6の記述からもある程度

    裏付けられるのです。
     

     従って本来迎図は佐久間信盛によって本図を所持していた僧侶から没収され、信盛配下の伊賀

    ・甲賀衆によって、僧侶を伴い山外に持ち出され、とりあえず、いずれかに保管するよう任され

    たのではないでしょうか。伊賀・甲賀衆は明智光秀にも所属していたと考えられるので、本来迎

    図の山外持ち出しを黙認した武将は明智光秀の可能性も否定できないと思います。
      
     本図の山外持ち出しに伊賀・甲賀衆が関わったであろうという私の推定には次ぎのような根拠

    もあります。本図裏書に表補衣師(表具師)馬椙甚三郎秀昌なる人物が尊秀という僧侶と連署し

    ていますが、馬杉(椙)氏は近江国甲賀郡の土豪で、馬杉丹後守は六角氏に仕え、元亀年間に衰

    亡しました(「甲賀郡志」下巻第17編第35節)。馬椙秀昌は馬杉氏の一族と考えられます。

     伊賀・甲賀衆は託された本来迎図を何処へ持っていったのでしょうか。それは不明ですが伊賀

    ・伊勢国で皇室と深い関係をもつ寺院に持ち込まれた可能性が大です。何故ならば本来迎図は比

    叡山安楽谷の勅封蔵に保管されていた旨の本図裏書の記述があります。また甲賀衆の山中氏は鈴

    鹿盗賊追捕使に補任され、伊勢神宮柏木御厨(近江)の保司職を得た。時代をさかのぼれば建武

    年間山中氏惣領実秀は伊勢に移住(「山中文書」二のル「水口町志」下巻史料編)しており、山

    中氏は伊勢にも所領などの勢力基盤をもっていたことを示しています。
     
     ところがやがて政治情勢は激変した。1580(天正8)年佐久間信盛は信長によって高野山に追放

    され、まもなく病死。1582(天正10)年本能寺の変で信長は自殺、明智光秀も秀吉に敗れて死亡

    したことは申すまでもない周知の事実です。
     
     本能寺の変で信長が死去したことにより、本図の山外持ち出し黙認を隠さねばならぬ事情は無

    くなったでしょう。しかしその後信長の後継者としての地位を急速に確立していった秀吉は信長

    の後継者として信忠の子三法師を擁立したし、また秀吉と対立する柴田勝家のような勢力もあっ

    たのであるから、信長死後ただちにその比叡山政策を変更する立場には居なかったのです。とこ

    ろが秀吉は柴田勝家や織田信孝を1583(天正11)年に倒すと、翌天正十二年五月一日比叡山再興

    を許可し、信長の比叡山政策を真っ向から否定しました。本図の避難場所となっていた寺院は本

    図の比叡山復帰を望んだであろうが、本来迎図とともに焼き討ちを逃れてきた僧侶は本図の比叡

    山復帰に難色を示したことであろうと推察されます。そして本図は焼き討ちを逃れて山外に持ち

    出されて以後、一度も比叡山にもどることはなかったであろうと私は考えます。なぜなら中世か

    ら近世にかけての比叡山には天台本覚思想と、この思想と深く結合していた摩多羅神信仰が支配

    力を強め、源信以来の天台浄土教の伝統を受け継ぐ本来迎図はその存在意義すらおびやかされて

    いたと考えられるからです。

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